沿革
昭和42年11月
光の家開設。児童福祉法35条第3項の規定により設置認可。(定員 20名)昭和43年4月
開設許可一部変更。(定員 80名)昭和45年3月
別館を増築。(定員 104名)昭和46年3月
第2光の家を新築。(定員 200名)昭和52年12月
新館を増築し、第1光の家本館と接続。昭和60年7月
第3光の家を新築。(定員 300名)平成3年4月
第2光の家を増築。(定員 332名)平成8年10月
外来診療開始。平成9年4月
重症心身障害児(者)通園B型事業開始。平成11年1月
埼玉県障害児・者生活サポート事業開始。平成11年4月
第1光の家が老朽化したため民老改築。
重症心身障害児(者)通園A型事業に変更。平成11年10月
地域療育等支援事業委託施設として事業開始。平成15年4月
自立支援制度による短期入所事業開始。
自立支援制度による児童デイサービス事業開始。平成17年4月
第2光の家が老朽化したため改築。平成18年7月
第2光の家が同一施設として認可。平成18年10月
地域療育等支援事業から相談支援事業と療育等支援事業に事業を分離し、入間西障害者相談支援センター設置。
日中一時支援事業開始。平成21年4月
光の家療育センターへ名称変更。平成22年3月
埼玉県障害児・者生活サポート事業終了。平成22年10月
坂戸市障害者就労支援センター設置。平成23年6月
発達障害児支援事業開始。平成23年7月
中核発達支援センター設置。平成24年4月
児童福祉法と自立支援法の改正に伴い一部事業変更。- ※重症心身障害児施設から医療型障害児入所施設と療養介護施設に名称変更。
- ※重症児者通園事業から生活介護事業に名称変更。
- ※児童デイサービス事業から児童発達支援事業と放課後等デイサービス事業に名称変更。
平成24年7月
児童発達支援センター設置。平成25年1月
短期入所を10床から13床に変更。平成27年4月
入間西障害者基幹相談支援センター設置。平成28年3月
光の家総合地域支援センター「ワンダーハウス」を開設。
児童発達支援センターと放課後等デイサービス、計画相談支援事業をワンダーハウスに移転。平成28年4月
社会福祉法人毛呂病院より社会福祉法人埼玉医療福祉会に法人名改名。平成29年12月
創立50周年式典を挙行。平成30年3月
坂戸市障害者就労支援センター事業受託終了。平成30年4月
入間西障害者基幹相談支援センターをワンダーハウスに移転。
第2次世界大戦後の昭和23年、毛呂病院院長 丸木清美(精神科医)と妻 丸木希代(小児科医)は県より依頼を受け、約500人の障がい児の検診を行なった。多くの障がい児の中には、戦争孤児や重度の重症心身障がい児も含まれていた。 とりあえず子供達の救済の為に、知的障がい児施設を設立し収容保護したが、重度の心身障がい児は毛呂病院の小児精神科病棟に入院させた。
その後重症心身障がい児施設が法制化された昭和42年に、アプタン女史の「愛と奉仕」の精神を理念として、子供達の心身の成長を願って、重症心身障がい児施設 光の家を開設した。
理事長は丸木清美、施設長は丸木希代が就任した。親から離された子供達がさびしくない様、家庭的な生活の提供に努めた。
季節行事を大切に、教育、リハビリを初期から導入し、障がい児医療や看護についても手さぐりながら、その専門性の向上に努めた。
光の家とアプタン女史
1880年(明治13年)、アメリカ・メイン州に生まれたエリザベツ・F・アプタン女史は、キリスト教の伝道のために28歳の時に来日しました。伝道活動中に衰弱した生後3か月の乳児を救済すると、その後養子としヨハネと名付け愛情を注ぎました。
しかしフランスに留学したヨハネは精神病を発症し帰国、その治療に頼ったのが毛呂病院でした。女史は毛呂村(現毛呂山町)に住まいを移し、幼稚園を開設したり病気や貧困に悩む多くの人の相談や救済にあたりました。
戦時中一時帰国するも戦後再び毛呂山に戻り、ヨハネが世話になっているお礼にと毛呂病院に隔離室を寄付、それは光の家と呼ばれました。毛呂病院では小児精神病棟ができた時にも、重症心身障害児施設開設時にも『光の家』と名付け、こうしたアプタン女史の愛と奉仕の精神を讃え、心に刻んでいます。